地域テニスの振興に情熱
プレーヤーとしても数々の栄誉
大正十四年九大医学部入学、同年医学部を卒業して医局に移ったばかりの村山長一をヘッドに、部員十名そこそこの部に加わり、大村中学一年生から始めた軟式を硬式にかえ、負けず嫌いの根性で練習に励んだ。昭和四年医学部を卒業、第一外科医局に入り、そのころ、同外科村山長一講師等が推進していた社会人専用コートの建設中であったが、かれは、その現場監督を買って出て、建設工事を進め、時には雪の中を、平尾の現場に通ったという。かくてコートは、翌五年春、当時の福岡女学院(現在の九電体育館)の北側に完成した。
六、七年、全九州選手権に単二位、一位、複一位、二位(パートナー村山長一)の成績をおさめた。
大牟田市に開業後、十四年三井鉱山小浜コートの建設に努力した。十六年には、戦時下開催に支障を来した別府での西日本庭球大会のピンチヒッターとして、小浜コートでの開催に尽力している。
戦後、いち早く三池港管理の駐留軍幹部と折衝し、小浜コートの修復をはかり、二十七年八月、大牟田ローンテニスクラブを復活し、二十八年には、昭和十七年以来中断していた大牟田テニストーナメントを再開した。この間、二十五年から二十九年まで五年間、全九州選手権、毎日選手権の壮年単優勝、雲仙国際テニストーナメント複に連続優勝を遂げた。
昭和三十年、西日本スポーツ賞を受賞、テニスマンとしての栄誉に輝いた。
四十年には、全九州ベテランミックストーナメントを、年中行事として開催するなど、地域テニスの普及、振興に不断の情熱を燃やし、さらに、四十年から四十七年にかけて、門司ローンテニスクラブ主催の親子トーナメントに出場し、長男と一回、次男と二回、三男と二回、四男と一回、計六回優勝し、テニスを通じての家庭団らんの範を示した。特に、三男国智、四男健智の双生児は、三十七年、九州ランキング少年の部単一位、二位、複一位にランクされ、「テニス一家」の名声を馳せた。
四十一年九州医師テニス協会を結成、会長に推され、以来大会開催三十九回(四十三年から年二回開催)、会員四〇〇名。本年結成二十周年記念大会を計画中、また四十九年の日本医師テニス協会結成の推進役を勤め、大会開催十一回、会員七〇〇名(内四〇〇名が九州勢)を擁し、五十六年から二代目会長に就任、五十一年に世界医師テニス協会に加入、五十二年の第六回大会(スエーデンのポスタットで開催)から参加、六十三年には、佐賀のウィンブルドン九州で開催を計画している。
(九州テニス協会六十年史:昭和六十年十二月一日発行 より転記。)