2016年3月15日

私のテニスの経歴 (松田 正次)


私のテニスの経歴

松田先生写真_2

福岡市医師会中央区    松田 正次   (元九州医師テニス協会会長)

学生時代

旧制中学には硬式テニス部はあったが、小学校では虚弱児であり中学校までは運動部とは無縁であった。 旧制高校は短縮で2年半となったが、其の間空手部で身体をみっちり鍛えた為か以後は学生時代、勤務医時代を通じて病欠を知らない。

 

九州大学整形外科教室時代

私のクラスは昭和20年7月に仮卒業となり、8月から好みの離床各科に配属されていた。 長崎の原爆負傷者の救護隊には級友の半数が九大各科から参加し、残りはその交替にと準備していた。 終戦後は九大は長崎から手を曳かされた。 私達は卒業延期、インターン、医師国家試験と制度を変えられたが、インターンは好きな学科に配属となった。

終戦2年目頃、芋畑になっていた整形外科教室のテニスコートを、整形外科と隣の歯科口腔外科との有志で資金を持ち寄りコートを復元した。 尤も現実には講師の宮城さんが庄の実家から一時立て替えて貰ったらしい。 私はまだ無給であったので免除された。 助教授だった柏木さん(後 神戸医大整形外科教授)の指導で始めてラケットを握ったものだった。 弁当を2個持参して昼休みと午後5時からテニスに興じたが、テニス教室みたいなものはなく、またその暇もないため、最初はラリーだけでとにかくテニスを楽しんだ。 私は標準とされ私より上手い人は「上手」とされ、私より拙い人は「へた」とされていた。 1年後第一外科に三宅教授が赴任されると、「テニスをやらない人の論文は見ない」とか噂が立つほどで一外科ではテニスブームであった。 三外科の対抗戦は可也頻繁に行われ、5組の対戦で私は「ネットにくっ付いて取れる球だけをとれ」と言い渡されて、柏木さんのパートナーでno.1として一外科の三宅教授・有馬組(当時同級の有馬君は佐田外科にいたがテニスの名手で試合になると顔を出した)と何回も対戦したが勝った記憶はない。 学内テニス大会も行われていた。

スポーツは何でも若い時に始めないと上手くならず特に球技ではこれが著しく、練習時間も充分取る必要があるのは承知していたが、戦時中では24歳でテニスを始めたのは仕方なかった事であり、始から楽しみと健康を願ったものである。

 

飯塚病院時代

昭和30年4月に整形外科医長として赴任した時、1級上の松山高テニス選手だった藤本芙二雄氏が検査医長として居られ、早速軟式テニスしかなかった病院の2面のテニスコートを利用して硬式テニスを始める事とした。 整形外科の医員は勿論内科の武富副院長、吉原医員など賛同者も多く、昼休み及び5時以降にプレイを楽しみ、三井山野病院と対抗戦を行なった事もある。 麻生社内では年1回の軟式の大会しかなかったが、2人共中程に構えて面食らわせ、かなりの成績を挙げた事もある。 満6年間飯塚にいて福岡にて私が開業した後は程なく硬式テニス部は消滅したとの事である。

戦後の福岡県医師会のテニス

昭和28年県医師会第2回文化祭 軟式庭球 開催    後 毎年開催

昭和34年県医師会第7回文化祭 までは 殆ど 福岡市と大牟田市 のみ

昭和35年 第8回文化祭 軟式,硬式テニス 併用 北九州からの参加あり

第9回文化祭 雨で流れた

昭和37年 第10回文化会 硬式テニス 開催

 

開業時の福岡市医師会のテニス

昭和36年5月39歳で現在地で整形外科の開業に踏み切ったのですが、当時の福岡市医師会で硬式テニスをされていた方々は

鮎川兼祐、田中長太夫、古賀元晁、秋本徹、鈴木剛秀、井島良雄、溝口博

が七人のサムライでシングルス総当りをされていた。

別格で 太田敏雄、疋田敬次郎が指導に当られていた。

福岡ドクターズテニス    昭和35年結成

鮎川、井島、秋本、疋田、鈴木、溝口、田中、太田、古賀

主に千代町の旧制福岡中学傍の古賀コートを使用し話し合いで1年かけての成績によって、当時の岩田屋デパート社長の中牟田喜一郎氏から寄贈のカップを年の優勝杯とされていた。

 

早朝テニス華やかなりし頃

開業3年間はジョギング位で余り運動らしいスポーツはしていなかった。 ある日先輩の井島・溝口の二人に誘われ、久しぶりにテニスをしてみたら、球に手が届かず、度々転んで散々な目にあった。 一念発起し医師会隣組の阿部、中垣、花田、梅津、高椋等の諸先生を誘い、西日本銀行研修所のコートを借りて早朝のテニスプレイを楽しむ事とした。

1年くらい続いたかと思うが、コート横の温室のガラスを度々破り、又銀行の朝礼や国旗掲揚などの妨げになるといい顔をしなくなった。 丁度その頃「福岡ローンテニスクラブ」に皆一緒に入会させて貰い、クラブが借りていた九電の南薬院の6面のコートでの早朝テニスに参加させて貰った。 薬院は帰りが丁度車のラッシユと反対方向となるので福岡市内のどこからでも早朝テニスに参加するのに都合が良く、医者に限らず一般会員も市内各地から20名余りが集まりにぎやかだった。 田中圭司さんや藤井静雄さんなども指導に見えた事もあり、多分その頃が皆の技倆が一段と伸びたたものと思われる。 医師会の全九州テニス大会にて原田・竹内組に次いで花田・松田組がBクラスで優勝し、4人がAクラスに上がったのもこの時期であった。 月に1回福岡テニスクラブの例会があり、抽選でパートナーに恵まれると時には優勝出来る事もあった。

夜明けと共に集まるので夏など4時半頃から「ヤッター」とか「あいた、仕舞った」とかの叫びで付近の住民はさぞ迷惑だったろう。 警察への訴えで警官が騒音計で計りに来た事もあったようだが、継続音ではないのでひっかからなかったようだ。 近隣から喧しいと文句が出て、また九電もエネルギー館を作るとのことで昭和50年夏に九電のテニスコートの貸し出しが中止になったのは残念であった。

九州医師テニス協会の発足

昭和41年10月9日

東公園県営テニスコートにて 第1回九州医師硬式テニス大会 が開催された。

終了後   九州医師庭球連盟 が発足の運びとなった。

年2回全九州テニストーナメント開催に決定

春は福岡県またはその近郊にて秋は九州医師会医学会の事業として開催

医師が自分で楽しむ会であるので薬屋などの寄付は求めず会費で賄う

会長 中島定次    庶務 松田正次  会計 原田恒喜

何故Bクラスの私や原田に決められたか全く分からない

 

後 日本テニス協会の改名に従い 九州医師テニス協会 と改称

第2回から下関市 第3回から 山口県の医師会員が会に加わった

 

昭和49年には日本医師テニス協会が発足した。

 

以後20数年間はパソコンもなく会員も100名から次第に500名に増え年2回の通知も大変だった。 2年に1回名簿を発行し北九州市の会員の努力により10周年記念誌も発行出来た。

Bクラスの優勝者は次回からは両者Aクラスと決めている。

施行の詳細は施行者に任せてある。

 

中島定次会長の死去により有馬哲三氏が会長を次いでおられたが、平成12年5月に有馬氏が死亡され、私松田が会長に推薦された。 世界医師テニス大会の実行委員長としてこれを受けたが、世界大会の翌年の11月末に私は脳梗塞にて立つ事も出来なくなった。 直ちに会長の辞任を申し出たが許されず、平成21年秋まで心ならずも何もしない名目だけの会長だった。

 

テニスクラブへの入会と行事参加

テニスが取り持つ縁が宣伝された皇太子の結婚により各地でテニスクラブが新設された。 私も技量は劣るものの厚かましくも一時は 福岡、春日、久山、西福岡、佐賀ウィンブルトン、玄海クラブ、毬球会のテニスクラブに加入していた。 その内に次第にダブルスでは同じくらいの年齢ではまあまあの試合が出来るようになって来た。

福岡市医師会でも数回銀行のコートを借りてシングルスも行なった事もあるが、コートを2人で專用するのは無理でシングルスは止めてしまった。

旧制高等学校卒業生では毎年1回東京で各校対抗戦があり、私も1回出た事がある。 年齢別ダブルス個人戦は京都であり、私も上手いパートナーと組んで優勝した事がある。 九州での福岡、佐賀、熊本(五高)、鹿児島(七高)の 旧制九州四高校対抗戦は年1回久留米の丸三テニスクラブの4面を借りて10数回行なわれた。 旧制高校卒業の最も若い人も80歳を過ぎた現在これ等は総て終っている。

九州医師テニス協会として中国・四国連合とは3回テニスを楽しんだし、韓国の釜山医師会と交流した事もある。

市、県や日本の整形外科の会でもダブルスが楽しめた。

オパールの会では元日本テニス協会長の中牟田喜一郎氏が年に1回開かれるこの会には日本のテニスの名手が多く実地に見ているだけで参考になる事が多かった。

 

早朝テニスの分散

昭和50年夏南薬院の九電のコートが使用出来なくなり、早朝テニスはあちこちに分散せざるを得なくなった。 2年前新設の「長住テニスクラブ」に数人で加入したが、行きは10分内外で到着するが帰りは7時半を過ぎるとラッシュに巻き込まれ30分以上掛かってしまった。 城内にある4面のバレーボールと兼用のコートに目をつけた。 福岡市当局と「早朝野球」があるのにと交渉したが、仲々らちが開かない。 井島先生から同窓の妹尾市会議員を動かして色々条件はつけられたが、やっと早朝テニスが出来ることになった。 以後30年以上現在も続けられている。 1面だけなので少人数で前のように指導者の参加は望めないが、とにかく火水木金の4日は可能である。 途中「こうろ館」の発掘の為場所は変ったが続ける事が出来ている。 家から1キロなので自転車で15分であった。

 

閉院以後

バブルの時代になると土地代は年々高騰し、従って相続税はひどい負担のものとなり、受け継いだ土地には住めない状況となった。 税理士に相続税を計算して貰っていたが、1億円のものが2~3年で2億円になってしまった。 10円単価での医療保険では到底及ばない額であり、遂に30年の整形外科開業を止め借金コンクリートのビルに建て替える事とした。 平成3年6月に閉院し1年がかりでビル建設に取り掛かった。 整形外科開業満30年1ケ月で年齢は69歳であった。

以後はテニスが生活の中心となり、年1回の世界医師テニス大会、全日本医師テニス大会、春秋の全九州、球毬会や各クラブ等の例会等など結構色々の行事があり、どうかすると日曜に試合が4ツ重なった事もあった。

医師の世界テニス大会は1990年イギリスでの会に始めて参加して以来、毎年の行事となり、またその報告記事を日本医師テニス協会に送るようになっていた。 2001年の第31回世界医師テニス大会を宮崎のシーガイヤから急に福岡で引き受ける事に決まり慌しい事となった。

この数年間の日常は火水木金は6時から7時半まで城内で早朝テニス、朝食後に火金は山の上ホテルのコート、木曜は香椎のコートに出かけていた。 この1、2年練習してもうまくならず、寧ろ段々下手になるようであったし、馬力がなくなった気がしていた。

第31回世界医師テニス大会 兼 第28回全日本医師テニス大会

平成11年(1999)の年末日本医師テニス協会の役員が福岡にみえて「宮崎で予定されている平成13年の世界大会に加勢を出して呉れ」との要請があった。 遠隔地であるのでいっそ福岡で開催しようかとなり、本部でも了承してくれた。

池田、富田、矢住、八田、隈、角田、塩飽、原田、平塚、の委員がそれぞれの担任の任務を充分以上に努力してくれたお陰で予期以上に立派な運営を果たす事が出来た。

6日の会期で年齢別、男女別にシングルス、ダブルス、ミックスで合計35パートあり、総ての試合が3セットマッチであった。 4日間は37面、最後の2日は20面のテニスコートの借用が出来た。

平成13年(2001年)10月6~11日に試合は行なわれた。 5日は歓迎会。

講演や展示,医療器具展示、外国夫人の茶事、マリエラ号による2時間の博多湾観光も順調に済んだ。

大会直前の9月11日のニュウヨークでのテロ事件で31名の急なキャンセルで一部混乱したが、海外12ケ国75名、国内317名の合計392名の参加者であった。 試合は雨の1日があったが順調に終了する事が出来た。

地の利で日本人は好成績だったが、特に9ケ国間で争われた(オープンと55才以上のシングルスと55才以上のダブルス3組による)ネイションズカップ争奪戦では日本が初めて優勝する事が出来た。

日本テニス協会の中牟田喜一郎会長と九州テニス協会の隈丸次郎会長のお二人は2~3ケ月に1回集まってテニスを楽しむ歴史の古い「毬球会」(会員約30名)の仲間で親しくして頂いていた。 福岡県テニス協会の本村道生会長は私の小学校、中学校同級の親友の末弟であり、その夫人は女子連の福岡県支部長であった。 更に福岡市テニス協会は私自身が数年前から理事を勤めていた。 福岡県医師会の関原啓次郎会長と福岡市医師会の竹嶋康弘会長はどちらも九州大学整形外科教室の親しい後輩であった。 これらの諸氏からは今回の世界大会運営にあたっては有形無形の強力なご支援を頂く事が出来た。

 

脳梗塞の発症

日頃頭痛、各所の痛みや障害を全く感じず、しゃがんでも走っても何等異状を認めなかったので、血圧も諸検査も全くした事がなく、薬も殆んど服用した事がなかったが、多分血圧は大分前から高かったと思われる。 79歳の平成14年11月24日の九大整形外科教室開講記念日の帰り、タクシーの降り掛けに突然泥酔状態となり、口も呂律が回らずふらふらで理髪店の奥さんの肩を借りて自宅のエレベーターまで送って貰った。 余り飲んでもいないのに酔いが回って不思議だなあと思いはしたが、その晩もパソコンで十数名に手紙を送る作業は普通に可能であった。 翌月曜は少しタイギであったので1日外出もしなかったが特別な異状は感じなかった。 27日の火曜は少し朝寝をしたので城内での早朝テニスは止めて朝食後山の上ホテルのコートに出かけた。 パートナーの水田夫人の活躍で宮崎・片岡組に6-5にて辛勝したが、最後に少し右足がもつれる感じがし、終わってから僅かに立ち辛く感じた。 1セットだけで止めて帰ることにしたが、30分ほどで軽くなり自転車で帰宅した。 正午過ぎに旧制福岡高校の親友大塚氏の死去が伝えら

れた。 三十余名に連絡に追われて午後を過ごしたが、この時は言葉は全く正常。 夕食の酒は半分にしたが、足が少しよろけるようになった。 寝ていて右上下肢がじんじんして堪らなかったが、朝歩けなくなった。 パソコンのワープロにて次第に右指の誤動が出てきて、言葉も次第に呂律が怪しくなった。 一階の平田内科に往診を頼み、国立病院の九州医療センターの岡田先生に連絡して貰い救急車で入院した。 入院までは人の肩にすがって歩けたし、右手でグウチョキパーも出来たが、MRI検査中から段々悪くなり、翌日は右上下肢は全く動かなくなり、言葉も不明瞭となった。 MRIでは脳幹部にぼやけた部があり、2回目のMRIでははっきりした黒点となった。 血管の硬化による亀裂だろうとの事だった。

考察

痛みも障害もなく、しゃがむのも走るのにも何の支障も感じなかったが、一旦倒れてみると実は故障だらけの体だったと言う事が判明した。 テニスを再開する事が絶対に不可能との結果が明らかになった現在、これは今から全く違った人生を味わってみよとの天の配慮と考えられる。 今迄の人生の整理を行い、また新しい事にも挑戦する機会が与えられたものと思う。

早速九州医師テニス協会会長の辞任を申し出たが年齢的関係からか辞任が認められずに平成12年春から平成52年秋まで心苦しくも名だけの会長を続ける事になった。